ハローワールド

自傷癖のあったわたしが、立ち直れた理由…そして亡き家族の為に(中編)

2016.1.27

コラム

【自傷行為をしても叱る人がいなければ今の私はない】

20代前半の頃の私は地方の病院に入退院を繰り返し、それこそ隔離室というものにも入れられた事もありました。大抵が気分に波があるので大騒ぎして、どなったり、物を誰かに投げつけたり暴れるなどの暴動性の為でした。
感覚が異常に鋭くなっていて、少しの事で相手に喧嘩をふっかけるような事もしました。
そして、それがうまくいかないと「死ぬ」「リスカする」などと言い、周囲を困らせたり心配させたりしたものです。

記事8-1

ODやリスカをして病院に搬送された事も数知れずありました。その度に友人や周囲から言われた言葉は「馬鹿野郎!」と叱るものから「死んでなくてよかった」というものまで幅広くありました。
ですが、今になって私には叱咤激励してくれる友人がいなければ、自分で気づき立ち直る事は出来なかったと思います。ただ病人同士の甘えで「大事に至らなくてホントよかった」としか言われなければ、ずっと心配をかけてそれを続けていたことでしょう。

【ショックだった親友の死】

そしてその数年後、音楽をずっと一緒にやっていた親友が突如この世を去ったのです。
まるで右腕をもぎ取られたかのような感覚がしました。
その事件以来私は落ち込み、何もかもが上手くいかなくなり、生活保護の身でありながら当時まだ発禁ではなかったリタリンに手を出し、それを1日何錠と飲んでいました。
今でも、痙攣発作としてその後遺症は残っています。

記事8-2

見かねた福祉事務所が「もうこの土地で生保の面倒は見れない。お父さんのいる東京に帰ってそちらで暮らしてください」
そうして、私は再び嫌で仕方なかった東京に戻る事になりました。
ですが地方で様々な過ちを犯した私を、父は黙って受け入れてくれました。その時父のありがたさを、改めて感じました。

【お父さんのお葬式なんか貴女、出せないでしょ?】


記事8-3

高齢だった父は、私が東京に戻ってきた翌年、心臓バイパス手術、腎臓障がいと入退院を繰り返しました。その頃から、認知症の症状が出始めてきたのです。
あの無口だった父親が何回も同じ言葉を繰り返し、始終何かを聞いてくる事に最初はとても戸惑いました。父は在宅介護を始め受けていましたが、亡くなる2年前にはもう、在宅介護は無理になりました。親戚からも虐げられていた私は、父の面倒を見ていた仲の悪い従姉妹に小さい頃の想い出の写真などの品を全て処分されてしまいました。
このままでは父が亡くなった時、私はお葬式にすら出れないのではないか…
ふと親戚に言われた言葉が頭をよぎりました。

「お父さんが死んだって、あなたじゃお葬式出せないでしょ?」

ただ悔しく、電話を終えた後に長い事泣いていました。その時、私は精一杯私と母の為に働いてくれた父の為に、最期の時は自分の手で必ず見送る事を決意しました。
そうして、ある行政書士の先生に出会い、自分の手で父と私に合う成年後見人の方をつける事が出来たのです。

(後編へ続く)

ハローワールド編集部

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